「日本の研究力、低落の一途 注目論文数10位に: 日本経済新聞」

低迷のきっかけに04年の国立大学の法人化を挙げる声は大学関係者の中で多い。その後、国から配られる大学の運営費に関する交付金は年々削減されていき、大学は人件費や管理費の抑制を進めたという指摘がある。

 結局のところ、日本の弱さはお金を稼ぐ力のなさの一言に尽きる。日本は小さい頃からお金という現実的な話を避ける傾向が強いため、いい歳した大人になっても「世の中お金じゃない」とメルヘンなことを言う人が多い。

 「お金が全てじゃない」は真だが、世の中の多くがお金によって支えられているのも真。

 税収が減ったら社会保障が手薄になり、いずれ助かる命も助からなくなり、優先順位や命の選別が行われるようになる。

 そしてお金と時間はセット。

 例えば趣味に好きなだけ時間をかけられる人は、仕事をしなくても生活できるお金がある人。

 研究・開発も同じで時間制限がある。時間には人件費や家賃などのコスト(固定費)がついてくるためその財源の範囲内で結果を出す必要がある。

 まずはそこの教育からだろう。

影響は大学だけではなく、企業の研究力にも及ぶ。米国では企業の研究者のうち博士号所有者の割合が、ほぼ全ての業種で5%を超える。日本は医薬品製造や化学工業などを除いた多くの産業で5%未満にとどまる。専門的な知識を持って入社する博士人材が、企業内でうまく活用されていない状況だといえる。

 これにはいくつかの受け止め方がある。

 「活用されていない」という受け止め方の場合、企業や研究機関の採用に問題があるという考え方。

 一方で「活用できる人材がいない」と受け止めた場合、博士号取得者のレベル(質)に問題があると考えられる。例えばただのガリ勉(反復・暗記学習)で研究者としてのインスピレーションがまるでない人とか。日本に多い。

 日本ではひらめきよりもテストの点数や勤勉さを重視する文化にあるため、「遅刻しないガリ勉」が高い評価を受けやすく、博士号取得まで行く人は天才ではなく秀才タイプが多い。だから学ぶ側から発見する側に就いた途端使えないという問題がある。

 ということは教育自体が時代にそぐわないということであり、簡単には解決できない。

 あと、社会人になるまでの競争が日本人同士でしかないことにも難がある。競争の内容自体が単調になってしまうので、思考も単調化しやすく、グローバル社会に必要な多種多様なひらめきが得られない脳にしか育たない。