「難聴は障害ではなく才能!ミス・ティーンUSA2020のジョージア州代表が伝えたいこと」

 ここ10年くらい、そういう発想というか発言が流行っているが、私はちょっと違う気がしている。

 ※もちろん、そう言った方が一般ウケ、メディアウケするのはわかっているので、流しておけと言えばその通りなんだが。

 「ミス・ティーンUSA2020のジョージア州代表に選ばれた」ことは、聴覚障害である(それに関わる)ことが評価されたわけではなく、美貌+美しい体型によって手に入れた勝利。それでもまだグランプリを獲得するまでは限りなく“ただの人”に近い。

 美貌も体型もほぼ生得(遺伝)的なものであり、彼女は聴覚障害かつ美しい女性として生まれてきた。しかしそれを持ち合わせている確率は1%にも満たない。

 同じような悩みを抱える人達に一瞬希望を与えたとしても、他人が持っていないものを彼女はたくさん持っていること(彼女と自分との違い)に気付いた時のショックの方が大きいんじゃないかと思うと、私は無責任に希望を持たせたくない考え。

 チラッと見た程度だが、まず難聴であるにも関わらず彼女は表情が明るく(性格がねじ曲がってないということは支えてくれる人達がいたということであり)愛されるオーラを持っている。ほとんどの人はソレを持っていない。例え同じくらいの美貌を持っていたとしてもこの差は大きい。

 私は重度の色覚異常だが、これを才能だとは思わない。確かに私の色彩感覚は褒められるまたは好まれることの方が多い。だから何のためらいもなく小さい頃から自ら色覚異常であることを公言していて、一度も嫌な想いをしたこがないどころか、色覚異常だということを信じてもらえないことの方が悩みなくらい。

 しかし音楽にしても食事にしても嗅覚にしてもファッションにしても、センスが元々一般的な日本人とまるで違うので、色覚異常だからこその色彩感覚かというとそうではなく、もっと本質的な感性の違いによるものだと自分で感じている。

 ウケを狙って「色覚異常だからこそ」と言ってみせるのは簡単だが、他人はそうはいかないことをよく解っている。

 2004年に学校での色覚検査を廃止したのは「差別や偏見を無くすため」らしいので、多くの当事者またはその親は色覚異常であることを隠したい(或いは気付きたくない)ものとして生きているということであり、照らし合わせて考えると、難聴を聴覚障害ではなく才能だと言うには無理があるんじゃないかと私は思う。

 例えば、イチロー選手を発達障害(アスペルガー)だと主張する人達を非常にしばしば見かけるが、仮に彼が発達障害だとした場合、イチロー選手のようになれない発達障害の人は一体何なのかという話になり、仲間意識を持つには距離が離れすぎた存在だと言える。

●●派と▲▲派。●●と▲▲の方が近く、●●派と▲▲派の方が近い。

 かれこれ20年前、Windows対Macというテーマにおいて、ビル・ゲイツ派、スティーブ・ジョブズ派に真っ二つに分かれていた。しかし、ビル・ゲイツとビル・ゲイツ派の人が似ているかというとまるで別次元の人達であり、世界トップ5に入る大富豪とただのサラリーマンでしかない。

 むしろ対極にある経営スタイルのビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズの共通点(まず類い希な成功者であること)の方が多い。同様にビル・ゲイツ派とスティーブ・ジョブズ派を名乗る一般人同士の方がはるかに似ている(ただの消費者であるという点)。

 要は成功者同士と庶民同士の方が似ているということ。

 このミス・ティーンUSA2020のジョージア州代表の女性が社会的成功を収めたら、例えば視覚障害のスティービー・ワンダーや、難聴だった(と言われている)ベートーベンなどと並んで名前が挙がることはあっても、一般聴覚障害の人との共通点が語られることはほとんどないだろう。

 何らかの勝利を手にする人とは、その時点で他の多くの人とは異なるものを持って生まれて来ていることが確定している。別の生き物と言っていいくらい。

 だから彼女が「難聴は才能だ」と言っても、その難聴というハンディキャップを埋めて余りあるほどの他の何か(美貌を筆頭に)を授かったのだという点をイチイチ(笑)指摘しておきたい。