「個性・特技を伸ばす」は“真”か。

 ギャンブルである可能性が高い。確率的に。

 「もっと個性・特技を伸ばす教育を」と言うともっともらしく聞こえ支持が得られやすいんだが、実際には割と無責任な考え方でもある。

 個性や特技を伸ばすことでその人の人生が豊かになるかというと、自己肯定感という意味でならそうかもしれないが(注A)、もっと実務的な意味合いで見るとそうでもない。

 「もっと個性・特技を伸ばす教育」が施されるようになれば、自分だけでなく皆も同じように伸びるので、相対的に見れば自分の立ち位置(偏差値)は変わらない

 むしろ潜在的な個性・特技の特性が時代にマッチしている人達が突出して伸びていくので、格差が開く可能性の方が高い。

 ※料理人ブームの時は料理が巧い人が伸びて、バスケットブームが下火になれば「バスケで食べていけるの?」がコンプレックスになり得る。すなわち水物。

 「時代にマッチ」した頭か否かは非常に重要で、この25年間のIT業界やテクノロジー業界を見れば稼ぐ人・稼げない人の差が無残なまでに開いていることがわかる。

 例えば「ダンスが得意」をどれだけ伸ばしても、それで食べていける人は1万人に1人もいないだろう。この数字の根拠は毎年の成人数が120万人なので、そのうち120人がダンスで食べていけるかという視点での推定。これを偏差値にすると87以上必要ということになる。

 ※で結局はダンスも歌も上手く、美形でスタイルが良いというところまで求められることになる。

 また「食べていける」とはそれが生涯続く必要があり、「ダンスが巧い」人の需要がいつまで続くかなんて誰にもワカラナイ。

 だから個性・特技を伸ばせば豊かになるかというとそうでもなく、むしろ方向転換を難しくさせる(時間的ロスが大きい)という点ではリスクが高い。頑張って専門的な資格を取った人や、大学・大学院で専門に学んだ人がソレを活かそうとして職種の選択肢が狭められることと同じ。

 反対はしないが、良い結果になるかというとあまり楽観視しない方がいいという考え。

 冒頭の(注A)は必ずしも自己肯定感の向上に結びつくとは言えない。全体の個性・特技が底上げされてくると、その成長率に沿っていれば横ばい、自分の成長率が遅い(低い)と取り残されていくような焦りにつながるから、むしろコンプレックスを増幅させる可能性がある。

 これまでの画一的な教育・社会の弊害か成果か、日本人はヒトは生まれながらにして大差ないと思っている人が多く、まるで平均所得に届かなくても中流意識も高い。これは他人との差異をあまり意識しなくて良い社会でもあるということであり、果たして日本人に“能力差”を思い知らされるような教育が向いているだろうかと私は疑問に思う。

 ということから、以前にも書いたが、12年くらい前まではアドバイスを求められた時「大学は別に行かなくてもいい」と言うことが多かったものの、ココ10年は「行ける環境があるなら行きましょう」と伝えている。多くの人がサラリーマンになることを考えると、それが最も無難かつ合理的な選択だから。

 例えるなら芸能人になるか企業に就職するかという“手型さ”の話。

 で、せっかく大学に行くなら良い成績で卒業しないと今後あまり役に立たないかもしれない。世間が問う「大学を出ているからといって優秀だとは限らない」という視点ではなく、心理特性を測る指標として“成績”はある一定の意味を持つから。すなわち勤勉か否か(加えて知識欲)の判定基準として用いられる

 今の時代、とにかく毎日勉強し続けないと時代についていけないので、「常に勉強する人」であることを印象付けるためにも、大学を良い成績で卒業することをすすめる。私なら。多分今後はイイ大学をダメな成績で卒業した人よりも評価点が高くなるだろうと予想する。