ブログを更新した。

 エキサイトブログはグーグルと相性が良いのでこのまま残す予定。

 知能のブログを始めた当初は寄稿という立場だったので、不特定多数の人が読むことを考え当たり障りなくできるだけキャッチーに仕上げた。何となくニュートラルな印象っぽいカメラマンの視点という立ち位置に徹した。

 本来は全然カメラマンじゃないんだが(笑)。

 実のところ私は知能指数(特に自分の)に興味がない。20代早くに必要なものは全部と言っていいくらい手に入れたので、今更知ってもどうにもならない。

 知能指数とは一般的に賢さの指標とされているが、指標とは実社会における結果に沿うべきものであり、結果が指標に歩み寄る性質のものではない。

 その点も含めて、私は自分を納得させるためのIQ(の高さ)という自己啓発的な用い方を好まない。IQが高いから上手くいくわけではないから。社会的に成功した人のIQが高い分にはIQという概念の有効性を考察する手がかりになったとしても、IQが高いのに上手く行かないからといってIQの有効性を再検討する理由にはならない。

 対人(対社会)で上手くいくためには、人間性や性格、精神性、教養、マナー、育ち、コミュニケーション能力、場合によっては見てくれやセンスなど、他にも必要なものが沢山ありすぎ、何が原因かを特定するのは簡単じゃない。

 かといって高い知能が不要かというとそうではない。全部あった方がいい時代。

 医学的に用いられる知能指数とは、常識的なこと、できなくてはならないことをいかに速くこなせるか、またはそれができない(平均より遅い)のであれば生活に支障を来す恐れがあることを判定するためのものであり、「賢さの指標」というよりも、現代社会においてできるべき、できた方がいいと考えられている基本的なもの。

 下位検査全ての項目が100以上あれば何ら問題は起きないだろうし、全部120もあれば十分過ぎるレベル。

 標準のウェクスラーは時間測定型であるため、知能が高い=速いであり、速ければ速いほど「手際がいい」「ものわかりがいい」ことは確かでも、賢さそのものではない。言うまでもなく遅いより速い方がいい。目の前に人が立って待っていることを考えたら答えは出るし(待たせる=コストだから)、“1人当たりの生産性”を問う時代に何が求められているのかと問えば検討する必要さえない。

 一方、第三次人工知能ブームはホンモノなので、ビジネスマンとしてこれを無視するわけにはいかず、常に時代を先読みし構えておく必要がある。

 意味するところは、人工知能によって何が不要となり何が残るのか。

 今になって「自動改札機は味がないから人の手で切符切りしようよ」とはならないように、なくなったものはほとんどの場合復活しない。

 すなわち、人工知能の仕組みそして目指しているところを理解することで、今後何が“終わる”のかを読み解くことができる。ひいては将来必要な人材を判別することができる。育て方も然り。

 例えば今、ひたすら人名を覚えるような暗記学習が必要だろうか。誰もが「グーグル検索した方が正確」と答えるだろう。しかし、インターネットもなければ携帯電話もなく、現場で誰にも確認することができなかった時代は外に出たら最後、自分の記憶を頼るしかなかったため、反復して暗記する必要があった(その点では“努力の時代”だったと言える)。

 私はそういう時代に生きていないので暗記学習はしない。ITレベルを上げる方がはるかに生産性が高い。

 という具合に必要とされる能力は変わっていくので、今知能が高かろうと再来年にはそう見なされないかもしれない。知能とはそういう性質のもの。

 プログラミングの義務教育化も重要な流れだ。今の大人は将来的に義務教育程度の知識・技能を持ち合わせていないと見なされることになる。

プログラミング義務教育化で現在の社会人の偏差値は下がる。IQも。

 私がプログラミング(Perl(笑))を覚えたのは1998年。その前2年ほどHTMLを書いていた程度。元々機械類は好きだったが全く理系ではなく音系(笑)。根を分類するなら感性と直感型。

 が、当時のプログラミング参考書や無料で配布されていたPerlスクリプトの無駄なコードに呆れて(笑)じゃぁ自分で書くかと思ったのが直接的なきっかけだった。

 その後PHPとSQLを覚えた。習得するのに2週間もかからなかったが、このわずか2週間の学習期間が人生に大きな富をもたらした。控えめに言ってピーク時で年間10億円×5年くらい。しかもほぼ全自動で(*A)。今で言う「生産性の高さ」「ITと知的生産」とは何たるかを自分で学んだ。

(*A)知的労働で完全無人収益化は可能か。【予告編】のベースであり、今度は当時の比ではない。

 今でも2001年に書いた自分のコードを久しぶりに見ると、我ながらあまりに先進的でなぜ動くのかすぐにワカラナイ(笑)。言うまでもなくこれらはウェクスラーで測定しない領域であり、私のFIQが140だからそこから何が解るかというと何も解らず、いっそ社会人偏差値または所得偏差値として出現率から導き出した方が早いし精確だろう。

 知能指数も結局は偏差値なので、仕組みは相対的なもの。早い話相場。

 多くのベンチマークが統合されてきたように、IQもいずれそうなると考えている。思考力や推定力といった単品での処理能力が高くても、記憶力や表現力がボトルネックとなれば人材としてのスループットは上がらない。

 そして人々は「思考」の生データではなく、「何がもたらされるのか」という総合的な価値を求めている。パソコンに例えるなら、「このCPUがイチバン速いのはわかったけど、iMovieの書き出しは2倍になるの?」という査定。要求。

 すなわち欲しいものを提供してくれるのか

 今後順を追って書くつもりだが、歴史的な「知能の高まり」とは、人々の生活を豊かにしたことを持って評価されてきた。

 遙か昔に遡ると、その日暮らしの狩りではリスクが高いし冬の狩りは厳しい。そこで大物を捕らえるために「群れる」(すなわち“社会”および“リーダーシップ”の誕生)メリットを見いだした。必然的にそこに「役割」と「責任」(ひいては「分け前」)がついてくる。その延長線上に「対価」が生まれた。

 他の人にできないこと、かつ他の人達が求めていることができる人を“貴重”と位置づけた。

 そして優秀なリーダーに付いていくことで「この冬も越せる」という安心や信頼によって統制や調和をもたらし、群れが大きくなることでルール(法律)が必要とされた。

 社会がどれだけ大きくなっても、個々の役割と責任の意味合いは変わらず、分け前と対価はその時代の相場的価値で決まる。

 すなわち、あなたは何をもたらすのか。

 最終的にはそこに本来「知能」が意味する答えがある。

 その辺は第四シーズンのテーマ「社会的知能」に持ち越す予定(笑)。

 というわけで、ココには『チャーリーのインテリジェンス』なんて名付けたんだから、知能のブログ共々相応しい内容になるよう努めたい。

 ※ちなみに「インテリジェンス」は情報収集という意味合いで付けた。「諜報」ではなくて(笑)。