ルビーの指環。

ルビーの指環(1981年):https://www.youtube.com/watch?v=JGXyxB5NjC8

※この動画だけ埋め込みができなかったので、上記リンクを参照いただきたい。

石原裕次郎からのお祝いの電話の時の寺尾聰の少年のような表情が印象的。ボスの愛があって、男がそれに応えようとする時に何ものにも代えがたいロマンが生まれる(生まれていた)時代。まさしく昭和のロマン。

1947年生まれの寺尾聰はこの時34才。既に十二分な大人の色気がある。それに対し私の年代の頃もそうだし今の34才というと何というか薄っぺらく、軽く、背中に哀愁とかまるでない男が多い。いわゆるバーカウンターに座る背中が絵にならない男。女性が何かを相談したくならない男。葉巻ふかして換気扇のスイッチ入れたら吸い込まれて消えてなくなりそうな男(笑)。

現代人の“薄さ”は何が原因なんだろうか。幼稚さ、すなわち未熟さだろうか。

そんなことを考えながらブランデーグラスを傾ける本日のBGMはルビーの指環

ルビーの指環で私の好きなシーンは、

そして2年の月日が流れ去り、街でベージュのコートを見かけると、指にルビーのリングを探すのさ、貴女を失ってから。

のところ。

女々しいと言えば女々しいんだが、たまにはそんなセンチメンタルな男心の描写もイイんじゃないかと思うと、ケムリが一段と美味しい。

少なくとも離婚裁判で罵り合った2人じゃないことが伝わってくる(笑)。ベージュのコートはバーバリーだろうか。

ジュリーだと「寝たふりしてる間に、出ていってくれ」勝手にしやがれ♪1977年)というノリでそれぞれ男のロマンの描き方が異なり、趣きがある。

ジュネーヴから届いたトリニダッドのビジア。比較的新しい品で、最近の傾向に則って第一印象は素っ気ない味だが、時折見せる渋みが王者の貫禄を感じさせる。

寺尾聰と言えばこの曲もいい。シャドー・シティ

ベランダのテーブルから知り尽くした雨の都会を見下ろしつつブランデーグラスを傾けケムリを吹かすと非常にいとをかしい時間が流れる。

今の横顔、なんてセクシー。
ふいをつかれて、グラス止める。

目に浮かぶ。

私が以前に「好き」だと言ったアイシャドウかもしれないことに気付いた瞬間とか。女心を感じずにはいられないが、問題は色覚異常の私はソレがあの時のアレなのかはっきりわからないこと(笑)。

気をつけないと、

 ソレ、あの時のアレ?

 そうそうアレ。雑誌の付録のサンプル(笑)。

的なことになる(笑)。バーのように暗いところだと質感まではワカラナイから事故りやすい(笑)。

自宅バーカウンターに鎮座するラリックのブランデーグラス。

ブランデーグラスにはロマンがある。が、ブランデー自体は結構暑苦しい味(笑)なので夏はあまり飲まない。日本の気候だと秋から冬がイイ。街でベージュのコートを見かける頃から。

健康志向の私は皮なしレモンの輪切りにエリスリトールを乗せてニコラシカは実にいとをかしい。ニコラシカとはロシア語で言う「ニコライちゃん」だが、カクテルはドイツ生まれらしい。

葉巻も短くなってきて、気をつけないと前髪に火が点いてパンチパーマになる恐れがある(笑)真夜中に似合うのはこの曲、ダイヤルM

長らく行ってないが、横浜ベイシェラトンの最上階のバーから見下ろすみなとみらいとブランデーは溶け合うように馴染んでくれる。言うまでもなく赤レンガでベイブリッジを眺めつつハマの潮風を楽しむのも良い。

で、うっかり前髪がパンチパーマになってしまえばもう後はお祭りであり(笑)、今までのブランデー+レモン+エリスリトールは何だったの的な感じでグランパトロン(テキーラ)+ライム+塩に切り替え、踊る美女のルブタンの赤い靴底をつまみに「そんなお経みたいな曲が売れるか」と当時言われたらしい寺尾聰に想いをはせながら(笑)この曲 HABANA EXPRESS♪ でエンディングを迎える感じ。

ここまで来たらネクタイの先にライムを巻き付けて振り回す感じで(笑)。

というわけで冒頭の本題に戻ると、薄い人生を送っているとドラマが少なく感性の幅も狭まってしまいますます薄っぺらくなるのか、或いは感性が乏しいから薄い人生になるのか、どっちなんだろうかとふと思った。

日本だけでなく海外でも同じ傾向らしいが、昔の10倍20倍の速さで時代が動いているので、本当は密度が高まり現代人の方が濃い人生になるはずなんだが、高まる密度に対し感度が追いついていないため、YouTube音源やMP3などのようにデータ量を減らすために圧縮(カット)される領域が増えているのかもしれないと思ってみたりする。

私は普段圧縮音源は聴かないが、YouTubeなどを観た後にCD原盤の音を聴くと高音の抜けが良くこんなに情報量が多いのかと非常にしばしば感動する。

ということは現代人は目の前にある情報の多くを切り捨てていて、モッタイナイ人生を送っているのかもしれない。