「迷惑、無駄と批判された「千羽鶴」 それでも折ることに意味はある 【コラム・明窓】 | 山陰中央新報」

 私も祈る(折る)ことには意味があると思う。それ自体が無意味だとは思わない。しかしそれは相手のためではなく、自分自身の精神性の域で。

 自分が祈ることで「相手のことを思って何かしている」という気持ちになれるのは自分を満足させるためのものであり、相手が喜ぶかどうか、相手のためになるかどうかはまた別。

 ゼレンスキー大統領ははっきりとスイーツ要らない。武器をくれと言っている。

 私流に空気を読むなら、「他のものは送ってくれるな」だろう。ドイツがヘルメットを送ったことに対しウクライナ市長が「次は枕か?」と返したソレからも同じことが言える。ドイツは一転して戦車を提供した。

 一方日本人は感謝動画に「日本の名前がない」と言い出す国民性で、してあげたことには感謝するのが当然という前提があり、これは相手に負担をかける。

 批判されて目を覚ますドイツと、批判されると「だったらもういい」と背を向け意固地になる日本の文化的・精神的な違いは大きい。

 侵攻初期の段階では、エッフェル塔やSNSのプロフィール写真をウクライナ国旗カラーにし、世界がこの侵攻を注視していて、ウクライナに寄り添っていることを示すことに大きな意味がある。経済大国でもなければNATOにもEUにも加盟していないウクライナの人々にとっては、世界が見捨てるどろか気付きもしないんじゃないかという不安があるから。

 自分が襲われている時に皆が見て見ぬ振りすれば辛い。そこで誰かが声をかけてくれたり通報してくれたり、或いは事後に証言してくれたりすれば嬉しいし心強い。

 連帯の表明。

 が、その時期は既に過ぎた。世界中が膨大な支援をしているので、後はどうロシア軍を撃退するかしかない。

 すなわち命をかけた超合理的な選択の段階。

 最小限の人員で最小限の武器でいかに効率よく敵にダメージを与えるか。

 言うまでもなくそこで千羽鶴は必要ない。だから相手のためではなく自分のためとして考える必要がある。

 それにもらった側は、処分するのにも精神的な負担があるだろう。特に感謝を強いる日本人からもらうと。しかし下記のような考え方もある。

前提として、折り鶴を制作していた方々は、障害者就労移行支援施設の利用者であり、バイトをして金銭的な支援をするのが難しい立場の方々であったこと。そして千羽鶴の送り先はウクライナではなく、日本国内にあるウクライナ大使館であることです。 つまり、実際に戦禍にあるウクライナの人々の元に大量の折り鶴が届いて、処理に困ったりする事態は起こらないのです。これらの前提情報が欠けた状態で、切り抜かれた情報が一人歩きし、意見や議論や拡散されているのが、今回の千羽鶴論争の一番の問題です。

 

 日本のウクライナ大使館に送るんだから処理には困らない。そして金銭的な支援が難しい障害者によるものだからという視点。

 私は結構困ると思うんだが。

 ウクライナに折り鶴の文化がない限り、気持ちが伝わらないのでありがたみもない。そこに障害者から「金銭支援ができない分、千羽鶴を折りました」と言われると、むげに拒絶・拒否、処分出来ない。この気持ちは世界共通だろうから、さすがのグレタ・トゥンベリ氏も「ペーパーレスの時代に紙(資源)の無駄遣いだ」と批判はしないだろう。

 だから余計に取り扱いに困るんじゃないか。

 落とし所として、大使館には送らずに、ウクライナ国旗カラーで折った千羽鶴を障害者施設に飾り、施設の利用者達と共にSNSに写真を載せ「ウクライナを応援しています」とメッセージを添えるのが無難じゃないかと私は思う。それなら相手に負担を強いない。

 そこで「いいや届けなければ意味がない」となると、相手の気持ちよりも自分の精神性を優先しているので、異文化・異民族の人にとっては文化の押しつけでしかなくなる可能性が大いにある。

 日常から多様性に揉まれてない日本人の弱いところ。

 そういったことを学ぶためにも、予定通り折り鶴を送れば、ウクライナ大使館が写真を撮ってSNSに「日本の皆さんから」とアップするだろうから、それに対する世界中の反応を見て学ぶのもいい。

 問題は、批判的な反応が出ると「ガイジンは心がない」「感謝の気持ちがたりない」とか言い出すのもまた日本人なので、学習するかどうかはワカラナイ。

 自分のことにあてはめてみると、私は昔からネクタイをプレゼントされるのが好きじゃない。全く私の趣味でもなければセンスもイマイチなことがほとんだから。が、くれた人に悪いから仕方なく1回くらいつけてみると、決まって周囲の女性から「そのネクタイもらいもの?」と指摘+ダメ出しされる。しかしもらい物を捨てられない性格なので、処理に困る。

 だから「ネクタイは山のようにもっているから要らない」と予め周囲に伝える。

 手作り物も困る。心がこもっている分趣味に合わないと処分するにも精神的な負担になる。

 ということから、冒頭に書いたゼレンスキー大統領の「スイーツ要らない。武器をくれ」やウクライナ市長の(ヘルメットに対し)「次は枕か?」などからある程度第三者(他国)の人々が取るべき方向性は見えてくるんじゃないかというのが私の見解。

 余談だが、その昔ドラマのセリフで「同情するならカネをくれ」というのが流行った。私はそのドラマは見なかったが、1円もお金は出さないが「感謝圧力」の強い日本人の本音なんだろうなと感じたことを笑い泣きの絵文字(😂)を見る度に想い出す。