お金という概念がない世界。

 「お金」という概念のない世界を生きたいという声が聞こえてきた。美容室で(笑)。

 昔から時々「お金なんてなければもっと楽なのに」という考え方を見聞きする。

 本当に楽なのか。

 「だって働かなくてイイじゃん」とかそんなノリだったりしないか。頭が悪くてお金のない世界を想像できないだけじゃないのか(笑)。

 そもそもお金という概念は相場(需要と供給のバランスによって値打ちが決まるもの)がベースとなっており、相場という概念は昔からある物々交換の時代に既に確立しており、記憶に新しいところでは(昔読んだ社会の教科書によると(笑))、15世紀の大航海時代では東洋のスパイス、絹、西洋のハーブ、毛織り物、金(ゴールド)・銀などの交換貿易が盛んだった。当然にそれ以前から個々の物々交換は存在する。

 交換とは何か。

 私が今、あなたのiPhone 13 Proと私の17年前に買ったソニー製のプラズマテレビを交換しようと言ったらどうだろうか。

 断るだろう。

 もうそろそろ寿命で壊れるかもしれない重くて分厚い時代遅れなプラズマテレビを最新のiPhone 13 Proと交換したいはずがない。

 しかし現在のiPhone 13 Proの価格は15万円前後。私のプラズマテレビは当時50万円以上した。それを交換したがらないのはなぜか。

 耐用年数とか経年劣化による価値の低下や、時代にそぐわないというトレンドの変化、そしてiPhone 13 Proの方が使い道が多い等が考慮され、高い確率で瞬時に「断る」という結論を出す。

 が、ちょっと“相場”について慣れている人は、メーカーや型番を聞いて、現在価値を調べてから返事をする。もしかするとプレミアのついた品かもしれないから。

 私のプラズマテレビはただのテレビでしかないが、もしかするとXXXX年モデルはiPhone 13 Pro新品価格よりも高くで売買されているかもしれないし、部品に使われている素材が今では希少で高騰し、iPhone 13 Proよりも高値で買い取ってもいいというケースがあるかもしれない。

 だからすぐに結論を出さずに、現在価値を調べてみるのも良い。

 「調べる」という行為がいわゆる努力、もしかすると価値が上がってるかもしれないから「調べよう」と思う直感がセンス。そして時間を消費するからコストでもある。そのコストをかけるかどうかが判断力。

 金(ゴールド)相場を見ると、1973年には1グラム958円だったものが、2021年には6,402円にもなっている一方、プラチナは高騰した後金の約半値まで下がった。ゴールドカードよりもプラチナカードの方が「上」だとされているのは、プラチナの方が価値が高い前提にある。しかし変わった。2000年初頭までは、「高価なジュエリーはプラチナ台で」が定番だったので、今頃損してる人も多いだろう。それどころか、未だにプラチナの方が高価だと思っている人も多く、調べもせずに相場に反してゴールドより高くてもプラチナを選択する人もいるかもしれない。

 アップルの株は14年で47.5倍にもなった。それ以前は倒産しかかっていた。

 家の売買も同じ。買ってすぐ下がる家がほとんどの中、10年後でも新築時の買値より高値で売れる物件が僅かにある。

 賢い取引には、知識や教養、専門的な知見、そして相場観すなわち“センス”(嗅覚?)が要求される。

 ということから、「損する・得する」という結果には、知性や知能、センスそして多少の努力(下調べとか)が関わっている。

 だから相場(時価)をわかりやすく数値化してくれる「お金」という存在がなかったとしても、結局は物々交換の世界で、知識や先見性、センスがないがために価値ある物を安くで手放したり、価値のないもの(或いは下がるもの)を高値で購入したりし損をする。お金がある社会で上手くいかない人は、おそらく物々交換時代に戻っても上手く行かず、食べていけないか、やりたくもない仕事をするしかない。そして上手く行った人を羨み「物々交換なんてない世界がいい」と言うことになる。

 そもそも株やFX、不動産で損をする人が、物々交換の世界で成功するとは思えない。価値が上がる下がるが予想できないんだから。ということは90%以上の人が上手く行かない。

 それどころか、今の時代は意識高い系が多いおかげで、お金を持っていない人でも「あっそう、用がない」と冷たくあしらわれずに済んでいるが、物々交換の時代なら、交換したい物を持ってない人には用がなく、下手すると今よりシビアな人間関係になるかもしれない。

 そんな世界で、交換できるような価値ある物を何も持ってない人はどうやって食べていくのだろうか。

 労力、時間を提供する(しかない)。

 「私はダマスクローズを1kg持っているが、ゴマ100kgと交換してくれる人はいないか」という人と出会った時、ゴマ100kgを持ってない人はお呼びでない。しかし「ゴマは全く持っていないが、取引が成立した際ゴマを運ぶ手伝いをするので、ゴマを5%分けてもらえないか」と取引が始まる。

 ※わかりやすく1kgと100kgと表記しているが、実際の現在価格を反映したものではない。

 ダマスクローズ1kgなら自分で運べても、ゴマ100kgは人手がいる。

 労働や時間に価値をもたらす時。「雇用」の始まりでもある。

 片道1時間運んだら、帰り道の1時間も消耗する。現代の通勤時間と似ていて、この方式の場合、労働者は1日に何往復できるかで収入上限が決まる。言い換えると長距離の運搬には分け前を多くもらう必要があり、更に別の問題もある(後述)

 取引成立後、ゴマを運ぶだけの人=肉体労働者もいれば、「ゴマを100kgを持ってる人を探してきます」(自分は交換できるものを持ってないので探してくるだけ)=営業・代理業で労働力とコネや人脈を提供し3%上乗せして8%もらえないかと取引する人もいるだろう。交換しようとしているダマスクローズの価値も理解していないと“営業”も上手く行かない。いわゆる商品知識。

 しかし、無事に労働対価としてゴマの分け前をもらっても、そのゴマが粗悪品でいざ他のものに交換しようと思ったら全く価値がないことに気付いたということがあり得る。いわゆる「つかまされた」状態。だからゴマに対する知識も必要になる。

 才能があってもなくても勉強(努力)が必要な理由。

 更には帰り道の環境(気温や湿度など)や時間を考慮せず(=視野が狭く行き当たりばったり)、食料など必要なものに交換する前にゴマが腐ってしまうかもしれず、そういったことも勉強する必要がある。

 その時に、ただモノを持ってりゃ裕福になるわけでもないし、モノを持っていてもその消費期限内に売りさばく買い手(顧客=積み重ねによる信用)も持っていないと無駄が生じることを学ぶ。

 ゴマ100kgの運搬は大変で、賢くない人は沢山人を集めて「頭数」で解決しようとするが、自分の取り分が減る。

 一方で賢い人(知的労働者)は、台車を開発するなど効率化を進め、ゴマの長期保存方法などを編み出し、それを他の食物にも転用し「輸送業」「保管業」を始める人もいるだろう。そうすれば、他の肉体労働者が「途中で腐る」(大変な割に取り分が少ない)ことを理由に嫌がる長距離運搬を独り占めできる。

 人がやりたがらないことにビジネスチャンスを見いだすセンス。

 するとついこの前まではただ運ぶだけで分け前がもらえたのに、今は頭も使わなきゃいけなくなる。これが先進国(文明が進む社会)においていつまでも単純労働では食べていけない構造。

 そうやって徐々に知能・才能、センスの差が出てきて、競争が生じ、競争に敗れたものはやりたくもない仕事をして食いつなぐしかない。或いは淘汰される。

 物々交換の考え方が発展すると、労力や時間、頭脳(知恵や知識とか)、或いは「美貌」も交換対象となる。

 ※ということから、女性が「美貌を売る」ことは正当な権利であり、他者が邪魔すべきでない。

 モノの価値、消費期限(有効期限)などの時間制限、そして交換に必要とされる消費時間の価値(=コスト)を見極める能力と判定の根拠となる知識がないと、労働対価として受け取ったゴマはkgあたりの価値が目減りしたり失われたりする。

 それでは頭の悪い人達が働いても働いても食べていけず労働を搾取されてしまうから、そこで、国や政府が一定期間その価値を保証してくれる金(ゴールド)やお金(マネー)という概念が登場した。

 労働対価はゴマの分け前をもらうんじゃなくてお金で受け取る。

という流れの延長線上にいる。我々は。

 一言で言えば、凡人でも分かりやすい値打ちの数値化。ゴマと違ってお金は腐らないから運搬方法や長期保存方法を考える頭がなくても良い。偽札にだけ気をつけておけば良い。現代ならば現金手渡しより銀行振込が安全という理由から「銀行を介す」意味が生じ、安全と引き換えに手数料を払うという銀行やクレジットカードなどの金融ビジネスが成立する。

 保険業なんてリスクを肩代わりするビジネスなのでオモシロイ。

 よって冒頭の「お金がない世界」がいいと考える人は、多分競争自体がない世界がいいと言っているのだろう。ということは遺伝子のない=個体差のない世界、すなわち生物以外で存在したいということになる。

 だから「ヒト」として生きていくにはいずれにせよ厳しい。

と自分で言っているようなもの。

 結果的に、お金のある世界で上手く行っている人は物々交換の世界でも上手く行き、その反対も然り。2015年に書いた「最初の上位2%が、ルールを変えても常に上位2%になる」可能性が高いとはそういうこと。

 しかしそれを「そんなのおかしい」「不公平だ」として、「富の再分配」の名の下に、他人が納めた税金で均等化しようという考え方は、全くもってナチュラルオーガニックな考え方ではなく、人為的(人工的)なもの。

 自然の摂理そのもの=遺伝子のあるがままにというのがナチュラルオーガニックな考え方であり、ヒトでありながら全く個体差のない世界というのは、完全なイカサマ(やらせ)社会だと言える。

 制度とは、人間が今現在これが正しいと思われる仕組みをルール化したものであり、宗教を信仰することと変わらない。違うと気付けばいつでも転じる。よっていつまでも「富の再分配」(累進課税)という考え方が真だという保証はないし、そもそも「雇用」という考え方が続くかどうかもわからない。国民全個人事業主化は絶対あり得ない話ではない。本来それが“対等”だから。

 するとアイディアやセンスのない人が淘汰されることになる。

 ということから、世間で使われている自分都合の「平等」な世界は訪れないだろう。

 約40億年前に単細胞から始まり、約25億年前にはシアノバクテリアになって、いつの日か藻になってワカメ(笑)になって、今ではライオンもいれば鳥もいてヒトもいるように、環境に適応し進化し、それは加速している。

 今後もそれ以上に個体差は拡大していくだろう。というのが私の見解。