「フィフィ「清掃員の報酬がゴミの量で決まると思ってるのかな」舛添氏らW杯ゴミ拾いへの批判に苦言 | 女性自身」

 舛添氏は相変わらず何を言ってもイチイチ袋叩きに遭い気の毒に感じる(笑)。

 カタールの文化には詳しくないが、パリのルーブル美術館前の公園にあるカフェでフランス人スタッフに「葉巻を吸っても良いか」と尋ねた際「どうぞどうぞ」と笑顔で言われたものの灰皿が出てこないので「灰皿を」と伝えると「地面に捨てて」「清掃員を雇ってる」と返ってきた。

 この話をフランスに住んでいた人達に話すと「そうそう、フランスはそういう文化」と強く頷き「世の中掃除しかできない人達がいる。掃除という仕事を与えている」という考え方が根付いていると話す。移民が多く言葉が通じなくてもできる仕事という意味もある。

 階級社会。

 が、ただでさえ清掃ボランティアを必要とする大規模なサッカーの試合で日本人がゴミ拾いを手伝えば助かるだろうというのはもっとも。

 しかしそこで止まってしまうとちょっと思考が浅い。

 統計学の応用が進んだ欧米社会では、あちこちでデータ解析が行われAIが走っているため、このまま日本人のゴミ拾いが続くと「観客のn%を日本人にしておけば会場は汚れない」と学習し、最適比率が弾き出された暁には「もう清掃員は要らない」というところまで合理化される。すなわち日本人観客に置き換えられるということ。

 その浮いたお金はAIやアルゴリズムの開発者、統計学者に分配され、彼らを雇った経営陣の采配に対する報酬となる。

 その結果、上位2%(偏差値70以上)のエリート層と、それ以外の人達との分断・格差が拡がっていく。

 日本人は同じチケット料金を払って他の人がしないゴミ拾いをするので、実質チケット料金は相対的に高く支払っているということになる。経済学的に言うと。

 精神論で言えば自ら進んでゴミ拾いをすることは素晴らしいが、そのうち「ゴミ拾いは日本人観客がするもの」として学習するAIのことも考慮する必要がある時代。

 これが明るみになるのは、翻訳アプリに「日本人」と入れたら「ゴミ拾い」と訳された時だろう。バグとして扱われすぐに取り下げられるとは思うが、AIとは感情がない分「数」をそのまま圧倒的大多数の見解(既成事実)として返すことがある。

 世の中の中枢のありとあらゆるソフトウェアは欧米製なので、いずれ日本人=ゴミ拾いと紐付けられる可能性はゼロじゃないどころか割と高い。

 じゃぁどうしろって言うんだと問うならば、ゲーム理論的に考えるともうこのまま続けるしかない。

 止めたら「日本人はゴミ拾いしなくなった」という印象の方が強く残ってしまうから。

 後は政府が外交努力によって「民度の高さ」として評価されるよううまく調整するしかない。それが政治家の仕事。

 どこの会社にも必ず1人や2人いると思うんだが、仕事が遅くて周りがイライラし、我慢できなくなって「自分がやった方が早い」とテキパキ片付け始めるとどんどん際限なく仕事が増えていき、当の仕事が遅い側は今まで通り同じ給料をもらい続け更に堕落する。そしていつか機械やAIに置き換えられる。

 ということが起こりうる。