馬鹿と天才は紙一重なのか。

 言うまでもなく正規分布の左端と右端の存在なので、天才は天才、馬鹿は馬鹿だと思うが、もし紙一重な可能性があるとすれば、親の教育の問題だろう。

 何かに優れた才能を見いだすと、親は「コレを伸ばそう」と力を入れ、執着・固執してみたりする。賞なんか獲ろうものなら舞い上がってもう「コレ1本で」みたいになる親も多い。特に所得偏差値が低い家や田舎では「頼みの綱」と化しやすい。発展途上国も同じ。「もうコレしかない」的な。何で「しかない」のかワカラナイが、そのくらい盲目的かつ変質的な子育てをしがち。いわゆる親バカ。

 その結果、同世代の子供達が当たり前に学ぶことを学ばないまま大人になる。外界との平均的な接触が断たれ多様性を失っている状態。すなわち未成熟。本人が悪いわけじゃなく、親や周囲が「他のこと」から遠ざけることで生じる環境的問題

 そして社会に出た「●●の天才」(自称)は当たり前のことができず、周囲は本当に天才なのか疑う。確かにあることはスゴいがそれ以外(の多く)は普通どころか著しく劣っていたりする。

 日本の職人なんかもそういう傾向が強い。学業が期待できない(=一般的に「良い」とされる就職は難しい)場合「手に職を」と考える人が多く、他を全部捨てて「コレ1本で」と考えることに起因していると推察される。

 コレとアレの2本じゃダメなのか。メシの種は3本4本あってもいい。

 「コレ1本で」という決断は本来“最後の手段”だと思うんだが。

 何かができれば他が全部免除される仕組みになっていない。世の中とは。もちろん、スティーブ・ジョブズ級の誰にも真似できないセンスがあれば、例え従業員を罵ろうとあざ笑おうとも皆が欠点を補いついてきてくれるかもしれないが、「超計算が速い」とか「スゲー記憶力」程度じゃ他人はお世話がかりになってくれない。得るもの与えるもののバランス。細かなタスクを自動化してくれるB級プログラマーの方が役に立つし、単体の能力はあと数年もすればほとんどAIに置き換えられる。

 それに時代の流れが速く「コレ1本」で残りの人生ずっと食べていけるかというと、もはやギャンブルでしかない。

 話は戻って、天才は天才にしか見えない。端から見て馬鹿と区別が付かないということはない。もし馬鹿と紙一重に見えるのだとすれば、実際に一部または多くの領域で馬鹿だということ。

突拍子もナイこととは。イノベーターと非常識。

 ヒトはちょっとしたミスを見かけたからといって馬鹿だとは思わない(揚げ足取りはいても)。馬鹿だと思う時とは、自分よりもそして平均よりも遙かに劣っている(かつ問題がある)と感じた時。

 あまりにも優れた思考やアイディア、センスと触れることで、自分のやってきたことが否定された気がして苦し紛れに「そんなの邪道だ」「おかしい」と批判してみる人はいるだろうが馬鹿と見間違えることはない。

 私が子育てについてアドバイスを求められたら、もし天才なら、天才だからこそより多くのことを学ぶ機会を与えるよう、環境刺激が大切だと言う。「コレができるんだから、アレもできるんじゃないか」という考え方。オシャレや会話のセンス、マナーや教養も学ばせたら良い。必ずその重要性を理解するから。天才なら。

 脳の活性とはそういうもの。ヘッブの法則からもそう言える。

 例えるなら、最新の高速CPUを積んだパソコンを買ったのに、ネットサーフィンとメールにしか使わない(使えない)のはもったいない。

 ヒトが特定の分野で使っている思考とはごく限られた領域であり(チェス、将棋、囲碁の話と同じ)、何かに絞れば絞るほど「AIにもできるよね」となる可能性が高い時代。

 ではなぜやたら1本化しようとする人(親)が多いのか。恐らく訳ありの天才(または秀才、或いは自称)が多いから。いわゆる正攻法での成功が見込めない場合。言ってみれば一か八か。だからギャンブル

 しかし、一部の領域だけ優れていて、世間はその使い道がイマイチわからない上に、更に教養がないとか非常識とかという話になると周囲にかける負担も大きい(利益よりもコストが高くつく)ため、、成功する確率はかなり低い。協力が得られないから。

 冒頭に書いた発展途上国などではある程度やむを得ない。例えば「サッカーが超上手い」とわかったら、勉強よりもサッカーで確実に食べていけるよう伸ばそうとする。勉強自体のコストが高いからよほど裕福でない限りどちらか一方を選ぶしかない事情がある。

 日本のような豊かな先進国で採るべき選択肢かというとそうではない。

 常識的で俗に言う「おりこうさん」で、多くのことが人並み以上にこなせる人がいる。そういう人が「私は天才タイプじゃないし」(女性に多い)と思って引っ込んでいることの方が社会的にはマイナスが大きい。

 「天才はどこかおかしい」(笑)を通り過ぎて「どこかおかしいくらいが天才の証」みたいな印象が刷り込まれすぎている。これは良くない傾向。

天才というキャラクター。不公平という心理。

 社会とは、一か八かの訳ありの自称天才に賭ける必要はない。

 ビジネスシーンでもやたらターゲット、ターゲットと言う人がいる(ほとんど男性)。もちろん子供向けの商品は子供っぽく仕上げた方が目に止まりやすいというのは確かだが、わざわざターゲットを絞ればその他を捨てることになる。

 その真逆を行く傾向として、この10数年「ロングテール」という言葉がよく登場する。成功事例として代表的なのはアマゾン。当たり前にどこにでもあるものだから余所の店がわざわざ通販で取り扱わないような平凡な商品群の売上げが全体の多くを占める。

 アマゾンはターゲットなど絞っていない。何でも来い。その結果パンデミック下で大きく売上を伸ばした。ヒトが必要とするものを網羅しているから。そして確実に届けるインフラを持っているから。コツコツと積み上げていくザ・正攻法

「米アマゾンが過去最高益、「巣ごもり消費」で好調|TBS NEWS」

 ターゲットを絞って上手くいくのは、確実に的を射貫く能力がある場合のみ。圧倒的なセンスありき。ビル・ゲイツが欲しがるソレ。だから彼はターゲットを絞らずオープンな戦略を用いた。アマゾンのジェフ・ベゾスも網羅型。

 私は昔からターゲット、ターゲットうるさいビジネスマンに「あなたは恋愛において的を絞れば確実にその相手と結ばれますか」と問うてみる。多くの場合、そもそも“ターゲット”の好みさえ理解していない事が多い。

 すなわちターゲットの設定とは主観的かつ一方的であることが多々あり、成就しない片想いのように切なく儚かったりする。言ってみれば自己満足的な戦略(?)。

 またこの20年「的」そのものが流動的で、子供が大人になる頃にはその的自体がない可能性がある

 数打ちゃ当たる的な方向感のないデタラメな戦法もすすめないが、1つのことに固執しすぎて盲目的になるのもすすめない。

 結局のところバランス感覚(相場観とか空気感とか)が重要なんだんが、こういった感覚とは「センス」を筆頭に、多くの知覚・認知・思考が統合され存在するものなので、より高次の知能として私は位置づけている。

 チェス・将棋・囲碁で言えば、1手の技術的な優位性よりも大局観の方。

 嗅覚の管轄かもしれない。何も解明されていないのでこれといった根拠はないが。

 というわけで、天才と馬鹿を一括りにする理由はなく、特定の能力だけで一生食べていける時代ではないので、幅広く教養もマナーも身につける方が得策だと言いたい。私は。